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あさがお制作見聞録⑤ 『スキャン! スキャン! スキャン!』

あさがお制作見聞録⑤
『スキャン! スキャン! スキャン!』

文:制作進行 成田和優

「脱臼」は英語で「dislocation」という。17歳の夏に知った。
理由は単純で、昼休みにオーストラリアン・フットボールに興じていたところボールのキャッチを誤り右手の小指第二関節を脱臼したからだ。
「dis-location」とは身も蓋もない単語だが、硬質な情緒を感じて気に入っている。
明瞭に疵痕が残った見返りに、せめてこの英単語が受験問題の核心部に出てきて合格点を下げてくれることを一心に願った。
もちろん一問たりとも出題されなかった。

小林銅蟲先生の「めしにしましょう」が名著であることは今更特筆すべきことではない。
1巻で紹介される「肩ロース氏」は本作品の中でも取り分け容易に作れる料理なので、日常的に作る人も多いだろう。私もその一人だ。
3度目の「肩ロース氏」仕込みの際、豚肩の脂を削ぐ刃が滑り左手人差し指の第二関節下方をえぐった。
血に覆われていくカッティングボードから豚肩を避難させ、Dr.テンマから学んだとおり損傷部を圧迫して止血を試みた。
10分経って出血が続くならば病院に行かなければならない。
果たして出血は収まり、ひきつれた三日月型の疵が残った。

器械体操部経験者の常であるように私もまた、指の付け根の皮膚が分厚い。
主に鉄棒、時に平行棒の責任による。
当時存命だった祖母は日常的にマメが潰れて血塗れだった私の手をいつも泣きそうな顔でさすった。

右手の薬指に関しては小学校から中学校にかけて最も特別な友人だったO君の家の犬によって穿たれたものだ。
頭から撫でようとしたのがいけなかった。爪に阻まれなかったらその疵は彼方まで続いただろう。
O君の母は消毒を施して幾重ものガーゼを巻いたのち、私を家まで送り届けて母にしきりに頭を下げた。
「それくらいツバでも付けとけば治りますから」と母は笑い、私もそれはもっともなことだと思った。地域的にも時代的にも大らかだったのだ。
戯れにO君をfacebookで探してみたところ少なくとも存命していることは確認できた。
ただしその顔は私が知っているものではない。それはO君からしても同様だろう。

ところであなたが一生のうちに行うスキャンの量は、私が「あさがお」の制作期間中に行うそれの量に劣る。あなたが制作進行あるいは仕上げ職人である場合を除いて。

制作経験値がない私は、レイアウト素上がり、レイアウト演出、レイアウト作監、レイアウト総作監、原画、原画演出、原画作監、(ある場合は)原画総作監、時には動画さえも、延々とスキャンし続けた。

たかがスキャンの何がそこまで辛いのか。我々はソーターを使わない。
あなたも経験があるだろうが、ソーターはある時突然機嫌を損ねてセットした紙を、殺す。
30時間かけて描いた難解な原画を一呼吸の間に八つ裂きにすることができる。
よって我々は気まぐれに行われる殺戮を排除するため、一枚一枚、複合機の蓋を開け閉めしてスキャンをとる。

広く知られていることだが人間は正気を保ったまま1時間以上スキャンを取り続けることはできない。
よって1時間が経過し肘から先がオートメーションされる頃には誰もが遠いところに行っている。
今日の夢は機械化された手指を眺めるうちに始まった。
「脱臼」は英語で「dislocation」という。17歳の夏に知った。
理由は単純で、昼休みにオーストラリアン・フットボールに興じていたところボールのキャッチを誤り右手の小指第二関節を脱臼したからだ。
「dis-location」とはひどく身も蓋もない単語だが……。

さて、以上が制作進行7大苦行のうちの1つ「スキャン」である。
残りの6つは機会があれば、どこかでまた。