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あさがお制作見聞録⑦ 『荻窪駅にて』

あさがお制作見聞録⑦
『荻窪駅にて』

文:制作進行 成田和優

「あさがお」のおかげで縁深くなった場所といえば荻窪をおいて他にない。
時に電車、時に車で晴れの日も雨の日も、昼も夜もとにかく頻繁に素材の入れ回収のため荻窪駅を訪れた。

頻繁に訪れるということは多少なりとも街を知ることになるし、街を知ることは「食べる」ことだと思っている。
荻窪駅北口を出て右手に進み、聞き取ることのできない声量で何かを訴えながら昨年開店したインドカレー屋のチラシをほぼ毎日配っている中東系の男性を躱してすぐに現れるのが「いっ久どーなつ」だ。
豆乳が原料のドーナツ、ということに関係しているのか分からないが抑制された甘み、常に揚げたてであるところ、何より店の前で気楽に立ち食いできるところが気に入り日参した。
こぶし大のドーナツに、よく冷えたカップ一杯の豆乳をやるのが初めて食べた日からの一貫した習慣で、最後の一欠片を流し込むまでの間にぼうっとドーナツ生成器(なんと呼ぶのかは分からないがそうとしか形容できない)から「ぬっ」と現れるゲル状ドーナツが狐色の油に投入され泡を立てて揚げられる様を眺め続けることも習慣だった。

いっ久どーなつを越えた先の最初の横断歩道を渡って右に曲がれば「吟遊詩人」がある。
大抵の場合それ以外が売り切れているという理由で、この店のマフィンとスコーンに関しては随分と多くの種類を食べたし、それによって社用車を随分と汚すことになった。
巡り合わせがよければ所謂「おかず系」のパンにありつくこともできる。
ドイツスタイルの太くまだら模様のソーセージをまる一本派手に載せたものが好物で、それがまだ残っているときはそれが昼飯あるいは夕飯になった。

駅に戻る途中には「十八番」がある。
しわがれているが何故だか聞き取りやすい不思議な声質の店主が営むこの店の「特製十八番ラーメン」は、醤油系のラーメンに別途フライパンで炒められたネギと豚バラ肉を加えるものだ。
あるいはそれが丼飯の上に盛られるならば一般的だと思うが、ラーメンに盛られるのは他で目にしたことがない。月に1度食べたくなる類のラーメンで、私は4ヶ月で4度食べた。

南口にも随分と通った。
「えだおね」は界隈屈指の人気パン店である。しかしここではパンを買うことは少なく(現に何を食べたか思い出せない)専ら「キャロットラペ」を購入した。
理由は単純で、この店を知った頃の私は野菜が足りていないのではないか? という強迫観念にかられていたし、野菜の代表格は人参であるという、おそらく義務教育過程で植え付けられた偏見が未だに染み付いているからだ。
そのうえで、キャロットラペは他の商品と比べて安価で、しかし十分に美味しかったことも勿論寄与してる。

えだおねの近くには「荻窪キムチ」という非常にストレートな名称のキムチ専門店がある。
300グラム税込650円と一般的なスーパーマーケットに並ぶそれと比べれば遥かに高額だが、キムチ様エキスに浸しただけの亜種ではなく、発酵食品としての正しいキムチを買うことのできる貴重な店である。
電車に乗って移動せざるを得ない旨を店員に伝えると、においが漏れぬよう梱包してくれる大変ありがたいサービスもある。
その梱包は確かで、帰宅するまでの束の間スタジオの冷蔵庫に何食わぬ顔でたびたび保管していたが、キムチが入っていることを気取られたことは一度もない。
買い上げの際は店の広告チラシが手提げのビニール袋に忍ばされる。
裏面にはキムチの他にもチヂミや豚キムチ丼などの魅力的な商品がテイクアウトできること、表面には黄色地に太い黒字で朗々と

「愛のキムチ 荻窪キムチ」

とプリントしてある。一度目にしたら忘れがたい。

フランス洋菓子店「ル クール ピュー」にはなぜかコロッケ、メンチカツ、アジフライが並んでいる。
急いではいるが余りにも空腹だったある日偶然から見つけた店で、齧りながら行動が可能というだけの理由で選んだコロッケの会計中に、
「洋菓子以外にもいろいろなものが並んでいますね」
とカウンター向こうの店主らしき気品ある女性に話しかけたところ、元々は洋菓子販売のみだったが試みで惣菜を販売してみると存外評判がよく、やめることができなくなったとのことだった。おかげで私は急場を凌げたわけだ。
この店で何にも増して目立つのが「かまどのりんご」という、タルト生地に1kg以上(とPOPに記載してある)のりんごを文字通り山積みした迫力あるケーキで、ひと目見たときにいつか必ず購入することを誓った。
何しろ無類のタルト好きであるし、りんご好きなのだ。
再び女性店主に尋ねると、毎年この時期にだけ販売する季節商品で、例年通りであれば4月の頭には販売を終えるという。まだ数週間ある。機会はいくらでもあるだろう。

機会はなかった。
とみに忙しさを増し荻窪に限らずあらゆる「入れ回収」を比較的手空きの制作進行に任せるようになったためだ。
ちくしょう、来年までお預けかよ。と悲嘆に暮れた。

5月上旬、「あさがお」完成後に迎えたゴールデンウィークのことだった。
荻窪キムチでお気に入りの「酸っぱキムチ」を購入し、「荻窪ビール工房」で当店が自家醸造していると謳うビールを一杯だけやったのち、気まぐれで、目的なく、何の期待もなく3月のいつの日か以来に「ルクールピュー」に立ち寄った。
果たしてまだ「かまどのりんご」は売られていた。

一人で食するには随分大きすぎるそのケーキを果物ナイフで切っているときになぜだか、「あさがおと加瀬さん。」は完成したのだ、と改めて感じた。
「1kg」は誇張されたものではなく怯んだが、店主が味の品質を約束した24時間で食べきることができた。
次の季節商品は何だろうか?