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あさがお制作見聞録⑧ 『およそ午前3時から午前7時の間にやってくる 天使が通り過ぎる1時間について』

あさがお制作見聞録⑧
『およそ午前3時から午前7時の間にやってくる
天使が通り過ぎる1時間について』

文:制作進行 成田和優

様々な事情がありアニメ制作の仕事はどうしても、およそ世界が静止している深夜早朝の時間にまで及んでしまう。
が、それは大した問題ではない。
要は慣れであるし、人間というのは驚くほど早く環境に慣れてくれる。

ただし中央線の始発の発車ベルが聞こえてきたときや、駅前の吉野家が最も客が入らない時間帯に1時間だけ店を閉めて清掃している様子を目にしたときなど「尋常ではないのかもしれない」と思うことがある。
しかしその至極真っ当な常識的感覚も日が経つにつれて消えていく。
凛とした夜明け直前、安価に腹を満たすためだけの雑な朝食を同僚と共にコンビニエンスストアに買いに行く道中で、この時間に働いていることに関して冗談交じりに口にすることもしばしばあるが、私も同僚も芯から「この時間」に適応しきっており、実際のところ何とも思っていないのだ。

他のスタジオでは分からないが、ゼクシズの制作進行の間では「帰宅力」という言葉がいつからか根付いている。
世間の常識と照らしあわせて正常な範囲から逸脱していない時間までに仕事を終わらせて帰宅する者を指して「帰宅力が高い」と評する。

標題の1時間はそんな帰宅力が低い者にだけやってくる、ある特別な時間のことだ。

同じような仕事量を同じようにこなしていれば、修羅場がやってくるサイクルも、集中が途切れるサイクルも、腹が減るサイクルすらも似通う。
「あさがお」は各話ともに同じスケジュールで進行していたため、各制作進行が同じサイクルになることは何ら不思議ではない。
しかし3月の終わりから4月いっぱいにかけて何かが噛み合ったのか、「あさがお」とは別タイトルに携わる制作進行も我々のサイクルにやってきた。
帰宅力が高い者が去り、平均点的帰宅力の者が去り、上司達が去り、帰宅力の低い者達が残されたあと、特に合図なく脈絡なくきっかけなく「その時間」はやってくる。

その時間はシンプルなルールに支配されている。
すなわち誰がどんな話をしようとも、どんな行動をしようとも、とにかく笑うしかないのだ。
誇張ではなく私は自分が鉛筆をうっかり床に落としてしまったという事実だけで数分間笑い続け、私が笑っているという事実だけで隣人たちも同様に笑い続けた。
その時間以外で同じような話、行動を見聞きしたとて、微笑だにしない。
というよりもできないだろう。
その1時間には実に様々な心底どうでもいい下らないことがあったのだが、とりわけ覚えているのは……

「あさがお」2話の制作進行が勢い良く振り返ったら彼のかけている眼鏡が飛んでいってカレンダーに突き刺さったこと。
ある言葉を言い間違えて全然別の言葉を発してしまったこと。(ここに書ける類の言葉ではない)
送り状の署名欄に自身の名前ではなく極めて自然体に「3」とだけ書いてしまったこと。
高濃度の果実エキスを何で割って飲むか、についての激しい口論。
これを極めたとしてもギリギリ食っていけない制作進行スキルは何か? についての議論。

こんな程度のことで腹が捩れる程可笑しく思える時間のことを、それが大体1時間ほど継続することもあって、私は勝手に「天使が通り過ぎる1時間」と呼んでいた。
この時間は決まって「実にくだらない、全く価値のない1時間だった」と誰か(私であることも多かった)が吐き捨てて終わる。
他の者も「この時間分睡眠を取った方がどれほど有益だったか」と口々に賛同する。
そして翌日も当たり前のように天使は私達の真横を通り過ぎて行くのだ。

「あさがお」が完パケした日、私達は0時に会社を出た。
中央線はまだ動いている。
2話の制作進行が言った。

「僕はあの時間があったから、最後まで持ちこたえられたんですよ」

その通りだと思う。
あの時間に私達はどうしようもない焦りや、苦しさや辛さを笑い声にして吐き出していたのだ。
愚痴を言い合って互いを慰めあう方法もあっただろうし、きっととても有効だったはずだ。
しかし私達はなぜだか、それを選ばなかった。
ただ1時間笑うことにした。本当に輝かしい1時間だった。

あのメンバーであの時間に笑いあうことはきっともう、ない。