あさがお制作見聞録⑪ 『佐藤卓哉監督との日々』
あさがお制作見聞録⑪
『佐藤卓哉監督との日々』
文:制作進行 成田和優
「音響って……音楽に関してだけじゃなくて、音そのものに対する造詣が必須ですよね? 例えば効果音とか……。
音楽に詳しいというのはまだ想像がつくんです。誰しもかなり早い段階で何らかの音楽には出会って、お気に入りの音楽が見つかるものだし。それが高じて楽器を始めて、理論を勉強して、っていう。
でも音そのものって、普通は出会う機会が無いと思うんです。ある意味、音って身近すぎて、当たり前すぎるものなので。
だから、佐藤監督が何がきっかけで、どうやって音のプロフェッショナルにもなったのか興味があるんです」
「やはり、音楽が出発点ですよ。学生の頃YMOがとにかく好きだった。
聴き込んでるうちに彼らの音楽は何から影響を受けているんだろうか? って気になりだして。それを調べて聴いて、次はその音楽に影響を与えた音楽が気になって調べて聴いて、また調べて聴いて、って繰り返していく内に、音楽を構成している音そのものにまで興味が行ってしまった。
最近はもう、日本語なんか全く対応してくれていないニッチな音響ソフトとか音素材とか、そういうものにも手を出してしまう始末です。
あまりにニッチだから、ちょっとしたことで躓いてそれをネットで調べても全然情報が出てこない。だから製作者に英語でメールして聞いてみて、で、何日かしたら返事が来たり。安倍吉俊氏じゃないけど、沼、みたいな」
「それは、完全に沼ってますねぇ」
私が3話制作進行として、3話演出でもある佐藤監督との仕事が始まったのは1月初旬である。しかし私にとって佐藤監督との日々が始まったのは1月18日の午前4時だった。
カッティング(各カットの尺決定)を翌週に控え、カッティング素材を作るための連日の夜を徹しての作業が終わった日、泥のように疲れた監督をはじめて社用車で、25分かけてご自宅まで送った日だ。
「アニメ監督」「映画監督」と聞いてあなたは何を思い浮かべる?
それも、少しでもアニメを好む人間なら誰もが知っているような偉大な作品の監督と聞いて。
私が思い浮かべたものも、あなたが思い浮かべたものと概ね同じである。
しかし佐藤監督はそうではなかった。
常に丁寧な言葉遣いで、控えめな物腰で、静かに耳を傾け、時に饒舌に話し、時に短い言葉で本質を衝き、妥協を許さず、配慮を忘れず、強い信念を持ち、「あさがお」のLINEスタンプを誰よりもよく使う。
そんな人だった。
はじめてご自宅まで送った日以来、佐藤監督がゼクシズに入る月木金曜あるいは水木金曜は、とうに終電時刻が過ぎていることが主な理由ではあるが、私がご自宅まで送るのが日課になった。
佐藤監督をこよなく尊敬する制作管理の崔さんもしばしば帯同した。
何で制作が2人もついて送るんだよ! 働けよ!
と心ない制作進行たちに度々注意されたが、崔さんは「うるせーばーかばーか」と実に的確な言葉でその意見を退けたものである。
はじめの頃はポツリポツリと、あるいは気まずい沈黙を発生させないために必死になって話題を探りながら25分を過ごした。
1ヶ月が経過し、2ヶ月が経過する頃には、何かよいことがあったのか、腹が立って仕方ないことがあったのか、世間話をしたい気分なのか、考え事に集中したいのか、意見を聞いてみたいことがあるのか、憔悴しきって一言も話したくないのか。そんなことも何となくではあるが、分かるようになった。
思い切って私から立ち入った質問をしてみることもあった。
作画、演出を越え、撮影、音響にまで興味を持つに至った経緯。
撮影監督と共にモニターに張り付いて、プラスを積み重ねていく、あるいはマイナスを少なくともゼロまで、できればプラス1にまで引き上げる制作スタイルは『STEINS;GATE』で確立したこと。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』について感じたこと。
『十二国記』にまつわる、作画人生の中でもトップ5に入ると言わしめたエピソード。
そういったものはその甲斐あって聞くことができた。(いずれも崔さんが同乗していない時の話である。重度の作画ヲタクである崔さんが十二国記の話を聞けなかったのは不憫でならない)
ある時は、今のままのやり方では持続しないことが明らかなのに、既に多くの綻びが露見しているのに、何故誰も動こうとしない? 変わろうとしない?
とアニメ制作を取り巻く状況に対して強い嘆きを漏らしていた。
だからせめて、自身が作る作品、それに集まってくれる人たちのことは良い方向に変えていきたい、と。
「あさがお」もそういう作品なんだ。そういう気持ちで作っているんだ。と。
25分の後に必ず私は、
「今日も本当にお疲れ様でした」
と言う。佐藤監督は必ず、
「お疲れ様でした。今日もありがとう。それでは気を付けて」
と言う。
そして助手席のドアを強く閉める。駐車場を何度か切り替え車道に戻ってから、今日が終わったことを実感する。
延べ30回以上、この25分を経験することができた。
「明日が原版です。お送りしなくて大丈夫ですか」
崔さんに言われてはっとした。
明日は原版。明後日と明々後日はV編。どちらもゼクシズではなく編集スタジオで行われる。
つまり「あさがお」を作るために佐藤監督がゼクシズに入るのは今日が最後だ。
つまり、私が佐藤監督を送れるのは今日が最後だ。
是非もない。
崔さんは私一人に送らせてくれた。
覚えていることは、これまでの労をとにかくねぎらってくれたことと、いい作品になったと確信している、という静かで強い言葉。
そして私自身が言ったこと。
「この先「あさがお」のことを思い出すとき、きっと私は佐藤監督をお送りした日々のことを真っ先に思い出しますよ。助手席に佐藤監督がいて、後ろに崔さんがいて……。
そんなことを、きっととても懐かしく思い出しますよ」
佐藤監督は笑った。
「いやぁ、そんなことはないでしょう。もっと色々なことがあったでしょう」
「今日も本当にお疲れ様でした」
と私は言い、佐藤監督は、
「お疲れ様でした。今日もありがとう。それでは気を付けて」
と言った。
そして助手席のドアを強く閉めた。
駐車場を何度か切り替え車道に戻ってから、これまでの「色々なこと」を思い出してみた。
大雪の日のカッティング、8時間ぶっ続けてモニターを睨んでいたこと。
タイムシートの記載、基礎知識もない私が誤記では? と尋ねた聞いたこと(もちろん誤記ではない)を、先輩制作に聞け、という当然のことは言わずその場で丁寧に教えてくれたこと。
美術をひと目みてしきりに頷く仕草。
その時間帯に他にどこも店が開いていなくて寄った幸楽苑。
作画のミスがみつかってパニック寸前の私に「大丈夫だから。とにかく、まずは落ち着こう」と声をかけてくれたこと。
撮影監督の口羽さんの元に真夜中に遊びに行ったこと。
アフレコでの指示出しと、即座にそれに答える声優。セッションのようだった。
ご自宅の玄関に何度も山程積んでしまったカット袋。
崔さんと須藤さんを交えて会議室で行った、スケジュールに間に合わせるための包み隠さないぶっちゃけた作戦会議。
「越境」という言葉。
お喋りが楽しすぎて終わらない作打ち。
ダビングが始まる直前に聞かせてくれた、音響と作画の、ひいてはセクション間にある深い溝について。
原画マンに叱られ続ける私を見かねて助け舟を出してくれたこと。
はさみ紙に書かれた独特の字。
1月18日の午前4時、はじめてご自宅に送る車中、重い沈黙を破ってYouTubeのアニメーションクリップを見た友人の反応についての話を思い切ってしてみたところ、大層喜んでくれたこと。
佐藤監督に再び会うことなく、翌々日に「あさがお」は納品された。
再び会ったのは秋葉原での関係者試写会の場だった。6月になっていた。
驚いたのは、佐藤監督の顔が違っていたこと。
写真で撮ったならばきっと違いはない。それでも、明らかに違っていた。
その違いを的確に表現する手段を持たないが、近い言葉があるとするならば、佐藤監督はリラックスしていた。
弛んでいるとか、緩んでいるとか、そういうことではない。
おそらく背負い続けた重いものをひとときだけ、下ろしているのだろう。
だから、その途方もない重さに戦慄した。
試写会は大好評に終わり、会う人皆と、作品とお互いの仕事について祝福しあった。
佐藤監督とも話し、笑い、ささやかだが素晴らしい杯を交わした。
佐藤監督は終始、リラックスしていた。
その4ヶ月前、2月の中旬のことだったと思う。
その日私は崔さんと、運転を交代しながら長い入れ回収の外回りに出ていた。
午前2時を過ぎた頃、偶然から佐藤監督宅近くの交差点を通りかかった。
これも全くの偶然なのだが、横断歩道を渡る佐藤監督を見かけた。
人気はなく、灯りのついた店舗もなく、風音もなく、点々とした街灯の淡い光だけが道を照らす厳しい真冬の深夜である。
佐藤監督は両手を上着のポケットに入れ、前のめりに歩いていた。
リラックスとは対極にある厳しい顔で、寒さに身を縮めながらしかし、前のめりに歩いていた。
私達は車を停めることも、声をかけることもできず通り過ぎた。
振り返ったときには佐藤監督は通りの向こうに消えていた。
きっと今もまた、佐藤監督は厳しい顔で、しかし前のめりに歩いている。